センターの人間がキャッチャーフライを取りに行くことはしないほうがいい。一打席、見逃三振をしたからといってそんなに落ち込まないほうがいい。

まずは自分の守備位置でしっかりと仕事をすることだ。他人のポジションの邪魔をしないことも重要だ。いろいろなことはチームプレイで行われている。失敗しても落ち込まないことだ。自分を責めて試合を欠場しないほうがいい。いろんなことについてはプロ野球の監督以上に我慢強く出場させてくれる。出場し続けることに意義がある。成長がある。

最終的な結果は誰かが決めることだから自分はあまり気にしないほうがいい。気にしても結果は変わらない。

一つの場所が駄目ならやり方を変えてみるか、場所を変えてみることだ。やり方を変えてみても人間、体幹みたいに軸はぶれない。自分がぶれていると思っていても「ぶれること」を続けるところが「ぶれてない」のかもしれない。ぶれるのは変化の兆しかもしれない。

答えが無いというのはとても困った問題だけれどビシッとこれが正解ってのがあっても窮屈だ。
何も悪いことはない。すべてはある状況下での相対的な話であって絶対的な話ではない。

「まんま」でいいと思う。

根元が変色してきてもう駄目かと思っていた人参のヘタからは命そのもののような綺麗な緑色の葉が出てきた。これを植えたら里芋みたいに子人参ができないかなーとぼんやり思う。

毎日、うまく回しているようでもそれなりにいろいろと溜まっていくようです。でも、このやっかいなものをどうすれば解決できるのかは皆目わからない。できないことに目がいっているだけなのか。でのしないといけない状況なのでとりあえずやってみよう。「できない」ってのはコンプレックスだけれどもそれも強さに変えることができると空海こと染谷将太が言っていた。

この一週間は風邪気味を引きずっていてどうにもよくなかった。時期的には当たり前なんだけれど自分の体やら生活やらいろいろと変わったのでまあ、自己再生能力も諸条件で変化しますわね。

いろいろとうまくいかないなーとかそれなりに悩んでいるけれど四六時中頭を離れないわけでもないのでそんなに大したことでもないのかと今、ふと思った。

とりあえずいろいろ事象はあるけれど毎日水替えをしてやって、切断面にカビが付かないようにきれいに洗ってやる。そんな風にいろいろとやっていればそのうち、葉っぱが出てくるだろうと思っている。


<今日の備忘>
NHK 日曜美術館 円山応挙 子孫へのメッセージ

人参の葉っぱがなかなか伸びない。豆苗は一度、料理に使ってから根っこを水に浸して置いたら、グングン伸びて2回くらい収穫できたんだけれど。

人参の葉っぱというものは葉物として料理すれば菊菜みたいに少し独特の風味はあるし、茎は少し硬い部分もあって食べにくいこともある。けれど刻んで餃子に入れたらその独特の風味が香味野菜のようにさっぱりさわやかな風味を添えていて茎も気にならず。非常においしかった。ほうれん草の根っこといい、人参の葉っぱといい意外なところも美味しい。

今日という一日に関してもそういう部分があるはずなんだけれどどうも自分でおいしい、楽しい部分を見過ごしておいて「今日もあっという間に過ぎてしまったな」と一人思っている。

あー、もったいない。でも、一瞬一瞬はいろいろあったけっれど絵具みたいに混ぜてしまえば大部分はなんとなくいい一日だったイメージはあるからそれはそれでいいと思う。

急に冬が本気を出してきて今晩は寒い。いつもだったらそろそろ主食が白菜になるほど鍋が続くんだけれど野菜高いし。

まー、なるようになるか。

停滞と感じていても物事が転がりだしたら早い。転がりだすまでは先々を無駄に考えず。でも、準備は怠らず。焦ってもいいことないし、出番が来て舞台にでればおのずとすべきことはわかってくるから。逆に停滞を味わうのも乙なもの。どうせそのうち出番がくるのは我ながら感じている。

身の回りの状況が変わっていることを感じ取っているのかもしれないし、ただ感度が鈍っているだけなのかもしれない。

もしかしたら、時間の経過が私の中に「経験」として集積されて判断が慎重になっているのかもしれないし、ただ消極的なだけかもしれない。

最近、どうも生活がよく言えば安定しているともいえるし、膠着しているとも言える。お蔭でよくも悪くもドキドキすることが少なくなっている。それなりのエネルギーで毎日をある程度ドライヴすることができる。

それでも「何か」を求めてスマホをシュッシュ、マウスをピコピコ動かして見るけれどそうそう毎日、「何か」に出会えるわけでもなく終わる。

この状況が失われた時に振り返って本当の価値を痛みと共に思い知るんだろうけれど今でもそれなりに「ありがたい」とは思っている。結構、いいバランスなんじゃないかと思う。そう思いたい。

同じ場所にずっと居ればそりゃ、いろんなものが変わっていってる。ある瞬間に自分の体内時計とクオーツ時計の差に気が付いて浦島太郎観に囚われたりする。

嫌でもなんでも時間という強制スクロールで進んでいくんだから刹那刹那を楽しむ努力をするくらいしか抱負がないな。

年齢は如実に尻に出る。

いろいろと変化が起こっても人間というものはそれなりに対応してペースを作っていくもののようで。

企業でも部や課といった一定のグループの中でも、新陳代謝というか入れ替わりは行われている。

いろんな変化の中で、「どうなるのかな」とぼんやりとした盆地の朝の霧のような視界を柔らかく遮る不安はいつの間にか晴れている。というか目のほうが慣れてくる。不安を見ないように目を手で覆うのはより自分を困難にする。

とりあえず前にも進まず、後ろにも後ずさらずに「その場に留まる」というのも立派な選択肢の一つに思える。

だいぶ前から知っていた音楽がある日、突然しっくりくるというか夢中になるというか。とても幸運。求めるものは必ずしも冒険の先にあるとは限らないらしい。案外、すでに持っていたりするようだ。

日が暮れるのが早くなって、冷えるようになってきた。ガソリンの値段を告げる看板は日に日に値上がりを示している。熱いコーヒーもすぐ冷める。鰤が安い。CMはクリスマスモード。

そんな景色の中でいろいろと思い悩んでいるけれどそれ自体、無駄。

毎日、毎日その日一日の自分を帰り道で振り返ってみて違っている気がしている。

どんな自分であってもそれは自分の一形態に過ぎないから「それも正解」であるはずなんだけれど周りとうまくやれていない気がするのはなぜ?

今日の自分は昨日の自分の反省を生かしたはずなんだけれど。これで万事うまくいくと昨日は思ったんだけれどな。と毎日思っている。

逆に「うまくいった」と思う日は何かが自覚できていない中で過剰だったり、不足していたりする気がする。無感覚でどおにも進んでいない。停滞している。一番だめだ。

今の違和感はそれはそれでそれなりの誤差に気が付けている結果か。向かい風でも感じるのならばそれは移動している証拠になるか。ならばよし。

天気が悪かったので冷たい小雨が降っているのか降っていないのかわからない中を二駅分歩いて帰った。一人、歩くことはいいことだ。歩くリズムの中でいろんなことが浮かんでは消える。消えたと思ったら急にぶり返してきたりする。

問題はいろいろと寄り道をして散財しがちなことだ。ちゃんと消費期限を確認して買い物しないと。一人でシュークリーム二個は多い。散財をして脂肪を貯蓄している。不要。

日々、是好日。日々、反省。日々、後悔。

どうも同じところをくるくると回っている。可愛げのある犬のように自分のしっぽを追いかけているくらいならいいんだけれど、道に迷った感じである。困った、困った、明かりが見えぬと頭を抱えている。

反省すれば学習をして同じ失敗は繰り返さない。はずなんだけれど繰り返しますね。表層は違えど本質は同一。しかし、「その瞬間」はわからないもんだ。

反省しようが後悔しようが間違い続ける。失敗し続ける。怒られる。迷惑を掛ける。

どうもフィクションの読み過ぎで当たり前のことがわからなくなっていたみたいだ。どんな人間だって大小の迷惑を掛けあって生きている。生まれた時から物体としても存在としても「摩擦」は起こっている。「摩擦」こそ「存在」だ。

自分のどこかに一番、いいバランスのポイントがあるはずなんだけれどいつも内的・外的な引力や圧力、風圧でブレてバランスを崩してしまっている。容易に同じところに帰ってこれない。ここでも迷っている。

いろいろと「やりたいこと」を夢想しながらも何も実行に移せていない。現実的な検討の結果や天地人がそろっていないと言えばそれまでだけれど。

自分のアラばかり目立って嫌になる。でもそういう歪なところを撫でながら「ま、仕方ないよね。俺だもんね。そうそううまくはやれんよね。」と自分を見放さず、ドロドロぬらぬらした自己嫌悪にどっぷり肩までつからずに自分という現有戦力でそれなりの勝負に持ち込むにはどうすればいいか考える気分になるあたりは私の成長と言っていいでしょう。

仕方ないよね、自分は交換できないし。いいところもあると思うんだよね。いいところって「できること」だから自分では簡単にできることだと思ってるけど他人にはできないこと、羨ましいと思われることもあるんだろう。だって、逆のことは毎日目の当たりにしているから。たぶん、逆もあるよ。あってほしい。あれよ。