最近、思考停止な日々にどっぷりつかってぱちゃぱちゃ遊んでいたがそれにも飽きてスマホから文庫本に回帰しようしている。たまたま古本屋で手に取ったのが脳についても本で脳というものは常に刺激を求めているらしい。

 

最近、自分が望む想像できる限りの刺激しか求めてなかったなと反省。いろんなものを決めつけて固定して安心しようとしてたんだな。うまくいくわけないし、面白くもない。

 

ちょっとしか読んでないのにすぐに影響されてそれまで大嫌いだった変化や刺激が欲しくなってくるから本当に自分って単純でそういうとこ好きだわと思う。

 

ローリンローリン。

 

止まっちまったら苔むしちゃうぜ。

 

海馬 脳は疲れない (新潮文庫)

海馬 脳は疲れない (新潮文庫)

 

 

いろいろと思うところはあれど「足るを知らん」だけであってそう悪くはないのかもしれないとも思う。ちょっとしたことで揺れてしまうけれどそれは安定した状態からいいのか悪いのかわからないが移動しようとか形を変えようとゆらゆらしている証拠なのかもしれない。

 

近くに眩しく光るものがあれば目がくらんで無条件に拝みたくなるがしばらく目を閉じて心を落ち着けれてみれば完全無欠でもないのだろう。すべてに長所もあれば短所もある。自分や他人の足らぬところを見たところで嫌な気持ちになるだけだ。完全なものなど存在しない。己は己でしかない。ほかのものにはなれないが他の何物にも代えがたい器でもある。己が器を信用しよう。

 

重要なことは揺れてるのであれば無理に動こうとしないことだ。視線を泳がせないことだ。余計な映像が脳に入ってきてしまう。まずは目を軽く閉じて深呼吸して、重心を下げて安定させることだ。変化を常に変えることだ。大変だろうけれど持てる全てでぶつかって後は時間が解決してくれる。気が付けば常になっている。

 

おぎゃあとこの世に生まれ落ちた頃から幾度と成功させてきたことだ。

やってやれないことはない。これからだって何度でもあることだ。

いっそのこと常に揺れてやろうか。小さな子供のように我が意のままに生きてみるというのも自然な生き方なのかもしれぬ。泣きたい時に泣き、笑いたい時にわらう。ふてくされる時は思う存分不貞腐れて、飽きれば笑いだしてしまう。

 

ここまで書いていたことが実にあほらしい。誠に愉快。

昔は医者に行くという概念が無くてなんでも寝てれば治ると思っていたけれどそうもいかなくなって、兆候を感じた段階で医者にかかるようになった。

いろいろと「そうあるべき」と言うことのは分かり易いがそう簡単にはいかないからそこを目指すんだという基本を忘れて自分にふがいなさを感じることもあるけれどそもそも不甲斐ないと思うこと自体がおこがましい。そう簡単にはいかないから「そうあるべき」なんだ。少し近づいたらもっと世界が広がっていってゴールだってもっと遠くなる。

とりあえずは「機嫌よくやってみる」という軸を忘れないように。

いろいろ、抽象的にも物質的にも数値的にも「足りない」と思うことは多々あるけれど昔に比べれば両手にいろいろ持ってて欲張ったら大事なものを落としてしまいそうだ。

とりあえず風邪を治す。

少し色々なことが立て込んで気が滅入っている。「ついていないな」とどす曇りの空を睨みつけるように見上げるけれど逆を言えばこれまで「ついていた」ので今と比較してスムーズに日々を送れていた裏返しだと考えると睨みつける筋合いもなし。とりあえずいつも通り細かくプロセスを分けてその時、考えうる最善手で処理していく。

樹木希林さんがお亡くなりになられて特集がいろんな番組で組まれていて見ていたら、ちょっと気が楽になった。本当に水面付近の薄い上っ面の情報なのだろうけれどそういう角度の考え方があるのかと思った。

周りを見渡せばそんなに悪いところまで振り切っていないのでくよくよ仕方がないことを考えすぎずにボールのように機嫌よく弾んでいようと思う。弾む努力をしようと思う。

一度、ステージに立ってしまったら足が痛かろうが、風邪を引いていようが今できるベストなダンスを踊るしかない。

いろいろなものを整えるのに旅行記を読むことはよい。

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)

だいぶしっかりと生活の「型」みたいなものがかなりかっちりと決まった感があって、気分がよかろうが悪かろうが体はスケジュール通りに動いている。ルーティンになってしまえばあまり辛いとも思わない。心がいかようであろうが体は動き、体の動きを基準にして流れの中で心がそれなりのところに収まる気さえしている。

という考え方は村上春樹の本からの受け売りで、読んだ時にようやく自覚できた。自覚すると暗示のようなもので心がそれなりのところに戻る感じもして「人間て、いい加減だな」と思う。

いい加減だからいろいろあっても生きていられるんだろうと思う。

小さな選択が次々に目の前にきてそれを右に左にいなしていく毎日。目の前のことで手一杯なので今はちょっと先の視界不良の世界をみて怯える余裕すらないし、それなりに体も心も温まっているから先の不安に囚われて足がすくんで体が冷えてしまうよりも状態としてはいいのかもしれない。

ちょっとした願望をあきらめる話をしたら「初めから何でもかんでも諦めなくてもいいと思う」と言われた。その通りだ。いろいろと自分のことについて願望が出てくるというのはいいとなのか、悪いことなのか。

昔ほど自分が「正しい」のかということに拘らなくなってきている。少し前までは、自分が偏狭な考えで回りに散らかしたマイルストーンと自分の位置を見比べてため息を蒸気機関車みたいに吐いていたけれど。そのマイルストーンすらあやしいもんだってことに最近、気づいたらしい。

いけるところまでいってみようぜって話。

何も考えなくても毎日が過ぎていく。よくないことなのかもしれないが刹那は全力なのでその結果であれば仕方がないのかもしれない。いろいろと浮かんでくることはあるが足るを知る感じでまた底に向かってブクブクと泡を吹いて不服そうに沈んでいく。平面続きの水面にぽっかりせっかく出てきてやったのに。帰れというのか。不服。

のっぺりとした水面は面白くはまったくないが安定はしている。それはそれでよしとするが物足りなく感じるのはまだ足るを知っていないからか。

それでもこの水辺に留まって波紋一つ起きない水面を眺めていられるということは自分自身がここを悪く思っていないからで。ここではないもっと何かを求めて立ち上がってすこし立ち眩みをやり過ごした後に薄暗い森に分け入ることもできなくはないがここに来るまでに荷物が多くてそんなに身軽でもない。それならばいっそのこと、このまま佇んでより多くの何かを感じることができるように全てを研ぎ澄ましていくという方向もありか。