久々に雨降りで靴を濡らして歩いた。傘の差し方は一向にうまくならないしその他もろもろもうまくいかない。でもうまくいき過ぎても後々、よくない気もする。

すんなりいかないことばかりでただ前よりは出来ている気もする。

いつかちょっと晴れる時が来ると思って傘をさして歩くしかない。

雨雲は流れていかない。自分の足で晴れた場所を探すしかない。

大事なものを詰めた鞄も濡れる。でも気づいて抱きしめて歩けばそれ以上は濡れない。

大丈夫、濡れたものはそのうち乾くし大事なものもダメになってない。

靴も濡れて歩くのも心地悪い。でも替えの靴なんて持ってない。

歩くしかない。木陰で雨宿りするのもいい。

傘で遮られて見上げることを忘れるけれど足元の濡れた植物はきれいだ。

落とし物をするかもしれないが探しさえすれば見つかる。おみくじと一緒。

まったく同じものは見つからなくても代わりになにか見つかる。

誰かと同じ場所には立てない。俺と君はまったく違う。

心地いい場所も違うはずだ。目指すベンチがあることは知っている。

万人がうらやむ場所なんて幻だ。渡された地図は悪い冗談だ。

そこに目指すべき場所は記されていない。破り捨てろ。

靴下は濡れて気持ち悪いがパンツまで濡れてはいない。上々だ。

小雨になった。さあ、お別れだ。よい旅を。

自分が今ここからどこに行くのかというのは想像もつかないし、考えても無駄だと思うから何も考えないことにした。

 

もう生まれてから短くもないそれなりに長い時間の中で「予定通り」なんてありえない。「今」を「間違い」だと否定するのも間違っている。嫌なら移動すればいい。誰も私をそこに縛り付けてはいない。縛り付けているのは自分自身だ。もう少し、他人が何を感じているかを想像する力があればと思う。自分以外はみんな幸せなわけでも悩んでいないわけでもない。みんな必死で隠して生きている。お前だけじゃない。そんな当たり前もたまに忘れてしまう。

 

でもどこにいてもそれなりに機嫌よくやれる自信もあるし。受け入れるしかない。未来設計とか将来像とか言うけれどそんなものトランプでタワーを作っているようなもんだ。遊び程度ならいいけど、トランプタワーは脆い。

 

出たとこ勝負しかねえ。

刻々と生きていれば状況は変わってくる。いろんなものを望むけれど足りないことだらけで。もともとの望みが法外なだけだと気づくまで自分でじぶんを死体蹴りし続ける。

 

この繰り返し。この繰り返し。場面が変われば望みも変わるもの。年を取れば理想は高くなるもの。

 

でも、腕を千切れるくらい振ったって人間は今のことろ空は飛べない。走ったほうが遠くまで行ける。現有戦力の確認と現実的な作戦立案は勝利への第一歩だ。

 

「迷った時には墓参りだよ」と大瀧詠一タワレコのポスターで語りかけてくる。すべてはそこに集約される。すべてはそこが始点になる。

 

あとはなるだけ自分がご機嫌にやるだけだ。気分よくやったって自分を抑えてやったって成否の確率は変わらないし、自分が重要だと思っていることも結果に対しては案外、重要なファクターでは無いことも多い。

 

結論としては「そのままでいいんじゃないか」ってこと。

*

昼間に夏空みたいに晴れていたので「もう夏だな」とか「暑くなるのは嫌だな」とか思っていたら夕方、雨に降られて一人の人間では計り知れぬ大いなる自然を感じた。単に服が濡れた。

 

NHKのドラマで「植物男子 ベランダー」を見て、原作のエッセイをたまたま本屋で見つけて読んでいる。自分の領土が出来なければ植物に興味は湧かないと思っていたが万物そうであるようにちょっと興味が出れば毎日の通勤路も面白い。

 

ヨーグルトの容器が重ねてストックしてある横で容器の一つが鉢になっていたり、たちあおいの花がぼとぼと落ちていて「自分の庭の道路側には植えないでおこう」とかまだ見ぬ我が領土計画に思いをはせる。

 

花を愛でるのは年を取った証であると思う。けれど冬に備えるリスのように昔からどこかで種を見つけてはどこかに埋めたくなる。そこから芽生え、天に向かって伸びていく様を想像しては心が踊る。三つ子の魂、100まで。

 

 

ボタニカル・ライフ?植物生活 (新潮文庫)

ボタニカル・ライフ?植物生活 (新潮文庫)

 

 

いろんなことが変化しているようで。というか周囲の変化に対して自分が変わらないといけないことが多くなってきていてまだ慣れない。

 

現実逃避気味に思考を停止してみたり、進めているようで自分で自分を袋小路のような考えに誘い込んでみたりよくもまあ、同じところをぐるぐるぐるぐるしたもんだ。

 

「もっといるべき場所」に瞬間移動しようとするからいけない。走る前から、走っている最中にスタートとゴールの距離を考えるからいけない。答えのないものに、そもそも問題として成立していないものに取り組むからぐるぐるするのさ。

 

「今」考えるべきことは止まらずに走り続けることであって頭で考えてみても足は一歩も前に進まない。とりあえずスタートから走り続けていればそのうち、ペースが掴めてきて、何も考えなくてもうまくゴールに近づくことができる。

 

初めてのコースに挑戦する時に不安になる。必ずなる。それは仕方ないことで。

 

でも忘れてはいけない。自身が幾多の環境の変化に対応してきた生き物であることを。

 

最近、いい音楽に出会えている。これはすごくいいことだ。

ズーカラデル

ズーカラデル

 

 

最近、思考停止な日々にどっぷりつかってぱちゃぱちゃ遊んでいたがそれにも飽きてスマホから文庫本に回帰しようしている。たまたま古本屋で手に取ったのが脳についても本で脳というものは常に刺激を求めているらしい。

 

最近、自分が望む想像できる限りの刺激しか求めてなかったなと反省。いろんなものを決めつけて固定して安心しようとしてたんだな。うまくいくわけないし、面白くもない。

 

ちょっとしか読んでないのにすぐに影響されてそれまで大嫌いだった変化や刺激が欲しくなってくるから本当に自分って単純でそういうとこ好きだわと思う。

 

ローリンローリン。

 

止まっちまったら苔むしちゃうぜ。

 

海馬 脳は疲れない (新潮文庫)

海馬 脳は疲れない (新潮文庫)

 

 

いろいろと思うところはあれど「足るを知らん」だけであってそう悪くはないのかもしれないとも思う。ちょっとしたことで揺れてしまうけれどそれは安定した状態からいいのか悪いのかわからないが移動しようとか形を変えようとゆらゆらしている証拠なのかもしれない。

 

近くに眩しく光るものがあれば目がくらんで無条件に拝みたくなるがしばらく目を閉じて心を落ち着けれてみれば完全無欠でもないのだろう。すべてに長所もあれば短所もある。自分や他人の足らぬところを見たところで嫌な気持ちになるだけだ。完全なものなど存在しない。己は己でしかない。ほかのものにはなれないが他の何物にも代えがたい器でもある。己が器を信用しよう。

 

重要なことは揺れてるのであれば無理に動こうとしないことだ。視線を泳がせないことだ。余計な映像が脳に入ってきてしまう。まずは目を軽く閉じて深呼吸して、重心を下げて安定させることだ。変化を常に変えることだ。大変だろうけれど持てる全てでぶつかって後は時間が解決してくれる。気が付けば常になっている。

 

おぎゃあとこの世に生まれ落ちた頃から幾度と成功させてきたことだ。

やってやれないことはない。これからだって何度でもあることだ。

いっそのこと常に揺れてやろうか。小さな子供のように我が意のままに生きてみるというのも自然な生き方なのかもしれぬ。泣きたい時に泣き、笑いたい時にわらう。ふてくされる時は思う存分不貞腐れて、飽きれば笑いだしてしまう。

 

ここまで書いていたことが実にあほらしい。誠に愉快。