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型崩れをした週末のスーツのような気持ち。
いろんな視点があって、気がつくたびにそこも「追加」して考えてみようとするけれどそんなことをしていたら遠近感がおかしくなって気持ち悪くなる。
散らかっている部屋に居て散らかっていることに癇癪を起こして余計に散らかる。
そんな例えがしっくりくる今日この頃。ツツジが綺麗に咲いています。
日記のように何かを書き残すという行為はとても建設的に思えるけれど言語に変換を掛けた時点で肝心なことが剥がれていく気がします。
自分と相手という関係では言語は気持ちを伝達するのにあまり有効ではない。
第三者が自分の気持ちを相手に代弁する。そういうシチュエーションでは言語は「客観性」というまやかしを身にまとい実にいい働きをすることがある。
あることについてこれまでの傾向からある簡単な結論が出るのだけれどそれはどうしても認めたくはない。
目を背けるだけだろう。認めはしない。
いつか現時点での結論が間違いだったと思える日が来るといい。