いろいろと思うところはあれど「足るを知らん」だけであってそう悪くはないのかもしれないとも思う。ちょっとしたことで揺れてしまうけれどそれは安定した状態からいいのか悪いのかわからないが移動しようとか形を変えようとゆらゆらしている証拠なのかもしれない。

 

近くに眩しく光るものがあれば目がくらんで無条件に拝みたくなるがしばらく目を閉じて心を落ち着けれてみれば完全無欠でもないのだろう。すべてに長所もあれば短所もある。自分や他人の足らぬところを見たところで嫌な気持ちになるだけだ。完全なものなど存在しない。己は己でしかない。ほかのものにはなれないが他の何物にも代えがたい器でもある。己が器を信用しよう。

 

重要なことは揺れてるのであれば無理に動こうとしないことだ。視線を泳がせないことだ。余計な映像が脳に入ってきてしまう。まずは目を軽く閉じて深呼吸して、重心を下げて安定させることだ。変化を常に変えることだ。大変だろうけれど持てる全てでぶつかって後は時間が解決してくれる。気が付けば常になっている。

 

おぎゃあとこの世に生まれ落ちた頃から幾度と成功させてきたことだ。

やってやれないことはない。これからだって何度でもあることだ。

いっそのこと常に揺れてやろうか。小さな子供のように我が意のままに生きてみるというのも自然な生き方なのかもしれぬ。泣きたい時に泣き、笑いたい時にわらう。ふてくされる時は思う存分不貞腐れて、飽きれば笑いだしてしまう。

 

ここまで書いていたことが実にあほらしい。誠に愉快。