少し色々なことが立て込んで気が滅入っている。「ついていないな」とどす曇りの空を睨みつけるように見上げるけれど逆を言えばこれまで「ついていた」ので今と比較してスムーズに日々を送れていた裏返しだと考えると睨みつける筋合いもなし。とりあえずいつも通り細かくプロセスを分けてその時、考えうる最善手で処理していく。

樹木希林さんがお亡くなりになられて特集がいろんな番組で組まれていて見ていたら、ちょっと気が楽になった。本当に水面付近の薄い上っ面の情報なのだろうけれどそういう角度の考え方があるのかと思った。

周りを見渡せばそんなに悪いところまで振り切っていないのでくよくよ仕方がないことを考えすぎずにボールのように機嫌よく弾んでいようと思う。弾む努力をしようと思う。

一度、ステージに立ってしまったら足が痛かろうが、風邪を引いていようが今できるベストなダンスを踊るしかない。

いろいろなものを整えるのに旅行記を読むことはよい。

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)

だいぶしっかりと生活の「型」みたいなものがかなりかっちりと決まった感があって、気分がよかろうが悪かろうが体はスケジュール通りに動いている。ルーティンになってしまえばあまり辛いとも思わない。心がいかようであろうが体は動き、体の動きを基準にして流れの中で心がそれなりのところに収まる気さえしている。

という考え方は村上春樹の本からの受け売りで、読んだ時にようやく自覚できた。自覚すると暗示のようなもので心がそれなりのところに戻る感じもして「人間て、いい加減だな」と思う。

いい加減だからいろいろあっても生きていられるんだろうと思う。

小さな選択が次々に目の前にきてそれを右に左にいなしていく毎日。目の前のことで手一杯なので今はちょっと先の視界不良の世界をみて怯える余裕すらないし、それなりに体も心も温まっているから先の不安に囚われて足がすくんで体が冷えてしまうよりも状態としてはいいのかもしれない。

ちょっとした願望をあきらめる話をしたら「初めから何でもかんでも諦めなくてもいいと思う」と言われた。その通りだ。いろいろと自分のことについて願望が出てくるというのはいいとなのか、悪いことなのか。

昔ほど自分が「正しい」のかということに拘らなくなってきている。少し前までは、自分が偏狭な考えで回りに散らかしたマイルストーンと自分の位置を見比べてため息を蒸気機関車みたいに吐いていたけれど。そのマイルストーンすらあやしいもんだってことに最近、気づいたらしい。

いけるところまでいってみようぜって話。

何も考えなくても毎日が過ぎていく。よくないことなのかもしれないが刹那は全力なのでその結果であれば仕方がないのかもしれない。いろいろと浮かんでくることはあるが足るを知る感じでまた底に向かってブクブクと泡を吹いて不服そうに沈んでいく。平面続きの水面にぽっかりせっかく出てきてやったのに。帰れというのか。不服。

のっぺりとした水面は面白くはまったくないが安定はしている。それはそれでよしとするが物足りなく感じるのはまだ足るを知っていないからか。

それでもこの水辺に留まって波紋一つ起きない水面を眺めていられるということは自分自身がここを悪く思っていないからで。ここではないもっと何かを求めて立ち上がってすこし立ち眩みをやり過ごした後に薄暗い森に分け入ることもできなくはないがここに来るまでに荷物が多くてそんなに身軽でもない。それならばいっそのこと、このまま佇んでより多くの何かを感じることができるように全てを研ぎ澄ましていくという方向もありか。

どんぐり

昔からいろいろと過ぎた時間の中で自分がしたことについていろいろと考えることもあるけれど結局は無駄。ということを実感することを何度繰り返せばいいのか。公園で小さな子供が一つどんぐりを拾っては手の中の別のどんぐりが地面に落ちて、また拾っては落としてを繰り返していた。でも本人楽しそうだしいいかとそんな感じでやれればいいんでないのか。

目の前だけではなくていろいろと目んたまをぐりぐり動かして見れば薄いブルーの空はどこまでも高いし、飛行機は飛んでる。生垣の椿は狂い咲いているし、花はこんなに寒い季節でも咲いている。地面を見たって、どんぐりが落ちている。あんまりにも楽しそうだったので自分も一つどんぐりを拾ってみればちょっと何かを得たような気がしてうれしくなってしまって三つ子の魂百までだなーと思う。

最近、年を取ったせいか、間違えたり失敗したりすることがすごく怖いけれどそれはなんだか自分自身を縛っているようなのでまあ、あんまり間に受けないようにしようと思う。阿呆は阿呆なりに踊り方があるはずだ。続けていれば、そこに居続けることができればそのうち、味や居場所ってのができてくるかな。

外的な要因は目まぐるしく変わっていくけれど内的なところはどうも成長しちゃいないと思う。まあ、でも「あれ?今の自分のバランスはよくないな」と外的なシグナルを感じて修正しようとするジャイロスコープは少し感度がアップしていて軌道修正する力は増しているのか。でも、そんなことは何度も繰り返してきた失敗がやっと結実しようとしているだけかもしれない。それなら単なる経験値の蓄積による学習だ。学習しないよりはましだけれど。感知するのと修正力はまた別問題でないね。まったく。気分は衛星軌道に乗った人工物だな。

よくわからないけれど回転寿司みたいに「よくもまあ、続くね」って感じでいろいろと起こる。ぼんやりとした全体像を想像して本当にめんどくさくて気持ちが折れそうになるけれどそこは最近、座右の銘に就任した「百折不撓」でってかっこいい考え方だと折れるのでよく近づいてできるだけ一つ一つの作業くらいにまで単純化していこうと思ってる。

一本の物差しで物事を全て計ろうとすると逆に歪んでいる気がして気持ち悪くなってくる。意外と、探せば自分の懐には何本も物差しが入っているのだからまあ、適材適所というか適時適所で一番、自分に都合のいい一本を選べばいいと思う今日この頃。肩の力を抜いてというか全身脱力くらいでいったほうがうまくいきそうなきがする。

自分で自分に期待するほど阿呆なことはない。大丈夫、力んだりしなくてもうまくできることは通常モードで出来るから。

夏と春を見た。劇中の音楽がいい。いや、すべていい。

センターの人間がキャッチャーフライを取りに行くことはしないほうがいい。一打席、見逃三振をしたからといってそんなに落ち込まないほうがいい。

まずは自分の守備位置でしっかりと仕事をすることだ。他人のポジションの邪魔をしないことも重要だ。いろいろなことはチームプレイで行われている。失敗しても落ち込まないことだ。自分を責めて試合を欠場しないほうがいい。いろんなことについてはプロ野球の監督以上に我慢強く出場させてくれる。出場し続けることに意義がある。成長がある。

最終的な結果は誰かが決めることだから自分はあまり気にしないほうがいい。気にしても結果は変わらない。

一つの場所が駄目ならやり方を変えてみるか、場所を変えてみることだ。やり方を変えてみても人間、体幹みたいに軸はぶれない。自分がぶれていると思っていても「ぶれること」を続けるところが「ぶれてない」のかもしれない。ぶれるのは変化の兆しかもしれない。

答えが無いというのはとても困った問題だけれどビシッとこれが正解ってのがあっても窮屈だ。
何も悪いことはない。すべてはある状況下での相対的な話であって絶対的な話ではない。

「まんま」でいいと思う。