どんぐり

昔からいろいろと過ぎた時間の中で自分がしたことについていろいろと考えることもあるけれど結局は無駄。ということを実感することを何度繰り返せばいいのか。公園で小さな子供が一つどんぐりを拾っては手の中の別のどんぐりが地面に落ちて、また拾っては落としてを繰り返していた。でも本人楽しそうだしいいかとそんな感じでやれればいいんでないのか。

目の前だけではなくていろいろと目んたまをぐりぐり動かして見れば薄いブルーの空はどこまでも高いし、飛行機は飛んでる。生垣の椿は狂い咲いているし、花はこんなに寒い季節でも咲いている。地面を見たって、どんぐりが落ちている。あんまりにも楽しそうだったので自分も一つどんぐりを拾ってみればちょっと何かを得たような気がしてうれしくなってしまって三つ子の魂百までだなーと思う。

最近、年を取ったせいか、間違えたり失敗したりすることがすごく怖いけれどそれはなんだか自分自身を縛っているようなのでまあ、あんまり間に受けないようにしようと思う。阿呆は阿呆なりに踊り方があるはずだ。続けていれば、そこに居続けることができればそのうち、味や居場所ってのができてくるかな。

外的な要因は目まぐるしく変わっていくけれど内的なところはどうも成長しちゃいないと思う。まあ、でも「あれ?今の自分のバランスはよくないな」と外的なシグナルを感じて修正しようとするジャイロスコープは少し感度がアップしていて軌道修正する力は増しているのか。でも、そんなことは何度も繰り返してきた失敗がやっと結実しようとしているだけかもしれない。それなら単なる経験値の蓄積による学習だ。学習しないよりはましだけれど。感知するのと修正力はまた別問題でないね。まったく。気分は衛星軌道に乗った人工物だな。

よくわからないけれど回転寿司みたいに「よくもまあ、続くね」って感じでいろいろと起こる。ぼんやりとした全体像を想像して本当にめんどくさくて気持ちが折れそうになるけれどそこは最近、座右の銘に就任した「百折不撓」でってかっこいい考え方だと折れるのでよく近づいてできるだけ一つ一つの作業くらいにまで単純化していこうと思ってる。

一本の物差しで物事を全て計ろうとすると逆に歪んでいる気がして気持ち悪くなってくる。意外と、探せば自分の懐には何本も物差しが入っているのだからまあ、適材適所というか適時適所で一番、自分に都合のいい一本を選べばいいと思う今日この頃。肩の力を抜いてというか全身脱力くらいでいったほうがうまくいきそうなきがする。

自分で自分に期待するほど阿呆なことはない。大丈夫、力んだりしなくてもうまくできることは通常モードで出来るから。

夏と春を見た。劇中の音楽がいい。いや、すべていい。

センターの人間がキャッチャーフライを取りに行くことはしないほうがいい。一打席、見逃三振をしたからといってそんなに落ち込まないほうがいい。

まずは自分の守備位置でしっかりと仕事をすることだ。他人のポジションの邪魔をしないことも重要だ。いろいろなことはチームプレイで行われている。失敗しても落ち込まないことだ。自分を責めて試合を欠場しないほうがいい。いろんなことについてはプロ野球の監督以上に我慢強く出場させてくれる。出場し続けることに意義がある。成長がある。

最終的な結果は誰かが決めることだから自分はあまり気にしないほうがいい。気にしても結果は変わらない。

一つの場所が駄目ならやり方を変えてみるか、場所を変えてみることだ。やり方を変えてみても人間、体幹みたいに軸はぶれない。自分がぶれていると思っていても「ぶれること」を続けるところが「ぶれてない」のかもしれない。ぶれるのは変化の兆しかもしれない。

答えが無いというのはとても困った問題だけれどビシッとこれが正解ってのがあっても窮屈だ。
何も悪いことはない。すべてはある状況下での相対的な話であって絶対的な話ではない。

「まんま」でいいと思う。

根元が変色してきてもう駄目かと思っていた人参のヘタからは命そのもののような綺麗な緑色の葉が出てきた。これを植えたら里芋みたいに子人参ができないかなーとぼんやり思う。

毎日、うまく回しているようでもそれなりにいろいろと溜まっていくようです。でも、このやっかいなものをどうすれば解決できるのかは皆目わからない。できないことに目がいっているだけなのか。でのしないといけない状況なのでとりあえずやってみよう。「できない」ってのはコンプレックスだけれどもそれも強さに変えることができると空海こと染谷将太が言っていた。

この一週間は風邪気味を引きずっていてどうにもよくなかった。時期的には当たり前なんだけれど自分の体やら生活やらいろいろと変わったのでまあ、自己再生能力も諸条件で変化しますわね。

いろいろとうまくいかないなーとかそれなりに悩んでいるけれど四六時中頭を離れないわけでもないのでそんなに大したことでもないのかと今、ふと思った。

とりあえずいろいろ事象はあるけれど毎日水替えをしてやって、切断面にカビが付かないようにきれいに洗ってやる。そんな風にいろいろとやっていればそのうち、葉っぱが出てくるだろうと思っている。


<今日の備忘>
NHK 日曜美術館 円山応挙 子孫へのメッセージ

人参の葉っぱがなかなか伸びない。豆苗は一度、料理に使ってから根っこを水に浸して置いたら、グングン伸びて2回くらい収穫できたんだけれど。

人参の葉っぱというものは葉物として料理すれば菊菜みたいに少し独特の風味はあるし、茎は少し硬い部分もあって食べにくいこともある。けれど刻んで餃子に入れたらその独特の風味が香味野菜のようにさっぱりさわやかな風味を添えていて茎も気にならず。非常においしかった。ほうれん草の根っこといい、人参の葉っぱといい意外なところも美味しい。

今日という一日に関してもそういう部分があるはずなんだけれどどうも自分でおいしい、楽しい部分を見過ごしておいて「今日もあっという間に過ぎてしまったな」と一人思っている。

あー、もったいない。でも、一瞬一瞬はいろいろあったけっれど絵具みたいに混ぜてしまえば大部分はなんとなくいい一日だったイメージはあるからそれはそれでいいと思う。

急に冬が本気を出してきて今晩は寒い。いつもだったらそろそろ主食が白菜になるほど鍋が続くんだけれど野菜高いし。

まー、なるようになるか。

停滞と感じていても物事が転がりだしたら早い。転がりだすまでは先々を無駄に考えず。でも、準備は怠らず。焦ってもいいことないし、出番が来て舞台にでればおのずとすべきことはわかってくるから。逆に停滞を味わうのも乙なもの。どうせそのうち出番がくるのは我ながら感じている。

身の回りの状況が変わっていることを感じ取っているのかもしれないし、ただ感度が鈍っているだけなのかもしれない。

もしかしたら、時間の経過が私の中に「経験」として集積されて判断が慎重になっているのかもしれないし、ただ消極的なだけかもしれない。

最近、どうも生活がよく言えば安定しているともいえるし、膠着しているとも言える。お蔭でよくも悪くもドキドキすることが少なくなっている。それなりのエネルギーで毎日をある程度ドライヴすることができる。

それでも「何か」を求めてスマホをシュッシュ、マウスをピコピコ動かして見るけれどそうそう毎日、「何か」に出会えるわけでもなく終わる。

この状況が失われた時に振り返って本当の価値を痛みと共に思い知るんだろうけれど今でもそれなりに「ありがたい」とは思っている。結構、いいバランスなんじゃないかと思う。そう思いたい。

同じ場所にずっと居ればそりゃ、いろんなものが変わっていってる。ある瞬間に自分の体内時計とクオーツ時計の差に気が付いて浦島太郎観に囚われたりする。

嫌でもなんでも時間という強制スクロールで進んでいくんだから刹那刹那を楽しむ努力をするくらいしか抱負がないな。

年齢は如実に尻に出る。

いろいろと変化が起こっても人間というものはそれなりに対応してペースを作っていくもののようで。

企業でも部や課といった一定のグループの中でも、新陳代謝というか入れ替わりは行われている。

いろんな変化の中で、「どうなるのかな」とぼんやりとした盆地の朝の霧のような視界を柔らかく遮る不安はいつの間にか晴れている。というか目のほうが慣れてくる。不安を見ないように目を手で覆うのはより自分を困難にする。

とりあえず前にも進まず、後ろにも後ずさらずに「その場に留まる」というのも立派な選択肢の一つに思える。

だいぶ前から知っていた音楽がある日、突然しっくりくるというか夢中になるというか。とても幸運。求めるものは必ずしも冒険の先にあるとは限らないらしい。案外、すでに持っていたりするようだ。

日が暮れるのが早くなって、冷えるようになってきた。ガソリンの値段を告げる看板は日に日に値上がりを示している。熱いコーヒーもすぐ冷める。鰤が安い。CMはクリスマスモード。

そんな景色の中でいろいろと思い悩んでいるけれどそれ自体、無駄。